カウンセリングと霊性

「人格は、遺伝によるものか環境によるものか」というのはは古くて新しい議論です。そして、異なる生育環境で成長した一卵性双生児の追跡研究などを積み重ねた結果、遺伝的要素と環境的要素の影響は五分五分であろうというのが、現在の主流な考え方です。

遺伝も生育環境も私たちは基本的に選ぶことができませんから、「遺伝と環境の結果があなたです」と言われると、かなり「受け身」な印象を受けるかもしれません。また、違和感を覚える方も少なくないかも知れません。

一方で、「私たちの人生が、遺伝と環境の結果に過ぎないというのは誤りだ。私たちは自分のあり方や生き方を選ぶことができる」。こう主張する心理学者もいます。例えば、ユング自身もそう言っていますし、ユング派心理学者のヒルマン も「どんぐり理論」を提出しています。また、『夜と霧』で広く知られるフランクル は「ロゴセラピー」を提唱し、人間の「意味への意志」の重要性を説いています。つまり、どんぐり理論もロゴセラピーも、遺伝と環境ではない、第三の要素を提案しているのです。では、この第三の要素とは何でしょうか。

「どんぐり理論」と聞くと、「どんぐりころころ、どんぐりこ」の童謡が思い浮かぶかもしれません。けれど、これは真面目な理論で、”The soul’s code” という本が出ています(米国では当時のベストセラーになりました)。日本語訳も出版されており、邦題は「魂のコード」です。どんぐり理論は、私たち誰もが人生で実現されることを期待されている「その人の独自性(uniqueness)」と共に生まれ、それは、生きられ実現される前から既に存在している、というものです。樫の木に育つ前から、小さなどんぐりの中に樫の木になるイメージが詰まっているように、私たちの人生は生まれた時からその人が持って生まれたイメージ(魂のコード)に向かって展開していく、という比喩から「どんぐり理論」と命名されました。

ロゴセラピーは耳慣れない言葉かもしれません。ロゴセラピーの「ロゴ」は「意味」と同時に「精神的なもの」を表す言葉とされます(フランクル, 2015, p.97)。ここでは「精神的」と訳されていますが、他のフランクル の原著では “spiritual” という単語で説明されているので(例えば、Frankl, 1986)、「ロゴとは、意味、そしてスピリチュアルなものを表す」とも訳せます。そして、この原著には注が加えられており、「ここでいう spiritual というのは宗教的な含意はなく、人間の一面を指す」と説明されていますので、おそらく “spiritual” は「精神的」よりも「霊的」「魂」と訳す方が原著には忠実かもしれないと感じます。

つまり、どんぐり理論もロゴセラピーも、遺伝や環境よりも、魂や霊性の重要性を指摘しているのです。

ところで、一般的に邦訳では、spiritualityを「精神」と訳すことが多いように思いますが、精神とは何かというと、これも説明は簡単ではありません。鈴木大拙は、精神と霊性とを論じて次のように書いています。

霊性を宗教意識と言ってよい。(中略)精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。超越は否定の義ではない。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。(中略)霊性の直感力は、精神のよりも高次元のものであると言ってよい。(鈴木大拙, 1972、p.17 )

ですから、フランクル の注書きからも伺えるように、spiritualityの意味に近い日本語の単語は、「霊性」もしくは「魂」だと思います。霊性というのは、「必ずしも特定の宗教を信仰するということではなく、ひろい意味で「聖なるもの」や「超越的なもの」を希求・探究する態度や実践のこと」です(鈴木則夫, 2021, p.442)。けれども、「霊性」「魂」といった言葉は、日本では怪しい印象を与えがちで、細心の注意を払って使わないと誤解される恐れがありそうです。実際、ユング心理学を日本に初めて紹介した河合隼雄も、スイスでの資格訓練を終えて1965年に帰国後、15年くらいの間は、用心して「魂」という言葉は絶対に使わなかったと著書に書いています。

私が米国で心理学を勉強した際には、”spirituality” “spirit” “soul”といった言葉が、頻繁にとはいわないまでも普通に出てくる環境でした。それが、帰国後、日本語に訳された心理学の本を読もうとすると「精神」とか「心」と訳されていることがあり、著者の意図を正確に理解するためには、結局は原著に当たることになるケースも少なくありません。私の推測ですが、訳者は「spiritualityは、本来ならば霊性、魂と訳すべきだが、日本の読者になじみのある言葉の方が適切だろう」と判断し、「精神、心」という訳語が選択されたのではないしょうか。

米国では心理学の分野だけで、”spirituality” “spirit” “soul”といった言葉がよく使われるわけではありません。例えば、米国大統領就任式で宣誓する際には、左手を聖書に置き、「神に誓う」と宣誓します。そして、先のバイデン大統領の就任演説では、soul、God, faith、the better angels、つまり、魂、神、信仰(信念)、良心といった言葉が頻繁に使われました。

関連して、かつて欧州に住んでいた当時、日曜日になるとお店が一斉に休業になることに驚きました。日本で言えば、スーパーはもとより、銀座のデパートもブランド店も全て休業です。日曜日は安息日だからです。日本では、日曜日といえばデパートでもホームセンターでも大いに繁盛する日ですが、欧州では売り上げよりも安息日が優先でした。それらの国では、資本主義よりも宗教の方が上位概念なのだと衝撃を受けたことを覚えています。今日、日本では資本主義が最上位概念のように感じます。

そんな背景もあるのでしょうか、日本では、「魂」「霊性」や「神」という言葉は、公のスピーチはもちろん、教科書にもほとんど登場しません。どちらが良い、悪い、ではないのですが、日本には、日常生活で「霊性」「宗教意識」を語る言葉の出番が少ないし、それらについて語る場もとても限られていると思います。心理学の中には、行動主義心理学のように、見えないものは加味しない理論もありますが、ユングの心理学やアサジョーリのサイコシンセシスなど、見えないものを大切に扱う理論もあります。しかし、そういった理論を正確に、かつ怪しまれない方法で日本に紹介することは至難の技かもしれません。

サイコセラピー(心理カウンセリング )では目に見えないものを大切に扱います。クライエントによっては霊性に触れるテーマが出てくる場合もあるかもしれません。また、意識していなくても、カウンセリングを受けているうちに、「目には見えないし、言葉にもしにくいけれど、自分に影響を与えている力」を感じているクライエントは少なくないのではないかと思います。なぜなら、私たちは霊的な存在という一面を持っていて、自分自身と深く出会うとき、なかなか言葉に表しにくいけれども確かに存在する力を感じるからです。

適切になされた事例においては、心理療法による治療過程で、患者本人もその医師も目指していないのに、患者が信仰する能力を取り戻しているのである。(フランクル, 2015, p.296)

ここでいう「信仰する能力」は、上記の「宗教意識」や「霊性」、つまり「something greater than us」(自分たちよりも偉大な存在)を感じる力だと思います。

(引用文献)
1) 鈴木大拙(1972).『日本的霊性』.岩波書店.
2) 鈴木則夫 (2021). 『人が成長するとは、どういうことか』.日本能率協会マネジメントセンター.
3) ヴィクトール・E・フランクル (2015).『虚無感について 心理学と哲学への挑戦』.青土社.
4) Frankl, V. E. (1986). The doctor and the soul: From psychotherapy to logothearpy. Vintage books.
5) Hillman, J. (1997). The soul’s code: In search of character and calling. NY. Grand central publishing (ジェイムス・ヒルマン 著、鏡リュウジ 訳 (1998).『魂のコードー心のとびらをひらく』.河出書房新社.