カウンセラーと倫理:境界線

心理カウンセラー(サイコセラピスト)には厳格な職業倫理が課されています。カリフォルニアのMFT(Marriage and Family Theapist)の資格試験では、心理学に関する専門知識とは別に、倫理についての単独試験が課されるほどです。

サイコセラピー(心理カウンセリング)には以下のような特徴があります。
・セラピストとクライエントとの心理的関係を基礎に行われる
・セラピストは「専門家」としてクライエントに対して力を持つ立場になりやすい
・プライバシーの確保された空間(言い換えれば、密室)で行われ、第三者の目が届きにくい

このような特徴のある関係の中で定期的継続的に会い続けるときに、クライエントの最大の利益(the best interest of client)を守るため、セラピストが意識的にはもちろんのこと、無意識的にでもクライエントを搾取しないように細心の注意を払う必要が生じます。その際のガイドラインが倫理規定です。

クライエントを搾取の可能性から守り効果的なサイコセラピー(心理カウンセリング)を実施するためには、セラピストがクライエントとの間の境界線(boundary) を適切に維持することが必要条件になります。境界線は、両者の関係性の近さ(あるいは遠さ)を設定します。クライエントとセラピストの関係性が近すぎるとクライエントが搾取される可能性が高まる一方で、遠すぎるとセラピーの効果が限定的になる可能性が生じます。セラピストとクライエントの境界線というのは包括的な概念で必ずしも明確とは言い難く、現在も議論が続くテーマですが、それほど境界線が重要であるのは、効果的なセラピーにはセラピストの「公平無私」「中立性」な態度が求められるからです(詳しくは「理想のセラピスト」を参照)。

この境界線と深く関連する問題に「二重関係(多重関係)」があります。二重関係とは、セラピストがクライエントとセラピストークライエント関係とは別の関係を持つことを指します。例えば、友人からセラピーを受けたいと言われてセラピストークライエント関係を結んだ場合には、もとから存在した友人関係にセラピストークライアント関係が加わり、二重関係が成立することになります。倫理上、セラピストが友人や知人をクライエントとすることは避けることが推奨されます。

二重関係が発生する場合にはセラピストは慎重にその影響を検討する必要があります。二重関係を考える時に、「避けられない二重関係」と「避けられる二重関係」に分けることがあります。避けられない二重関係の例として、セラピー開始以降にセラピストとクライエントが同じ店で買い物をしていることがわかった場合があります。これは、セラピストークライエント関係と、同じ店の顧客同士という関係が二重関係を構成すると考えます。このような二重関係は事前に回避することが難しいのですが、多くの場合、セラピーのプロセスに影響を与えたりクライエントに不利益になる可能性が小さいため、問題がないとされるようです。

他方で、避けられる二重関係もあります。例えば、一緒に食事をする、仕事を斡旋する、などです。では、避けられる二重関係が全て倫理違反かというと、そうでもありません。例えば、小さな村で床屋も一人、セラピストも一人、という環境では、床屋がセラピーを受けるには二重関係を避けられないという状況が生じます。また、極端な例になりますが、クライエントにプラスの影響があるとセラピストが判断すれば、一緒にテニスをすることも倫理違反ではないと論じる心理学者もいます。他方で、決して許容されない二重関係もあります。それは、セラピストとクライエントの性的な関係です。セラピストが自らの有利な立場を利用してクライエントを性的に搾取したと解されます。性的な二重関係を倫理的許容範囲とする論者は皆無で、もちろん明らかに倫理違反であり米国ではセラピストの資格が剥奪されます。

性的な関係や、借金の申込みなど、明確にクライエントの不利益になる二重関係ばかりではなく、実際はグレーな二重関係(例えば、PTAの役員同士、遠い縁戚など)もあり、セラピストは、クライエントの最大の利益を念頭におきながら、他のセラピストにコンサルテーションを受けるなどして、クライエントとの境界線について慎重に検討する姿勢を持ち続けることが必須になります。

ちなみに、米国のMFT倫理基準によれば、セラピーが通常通りに終結してから2年経過すると、セラピストと元クライエントが新しい関係を築いても問題がないと定められています。セラピー終結後2年経てば、例えば一緒に食事に行くことも起業することも可能になります。しかし、「セラピー終結後2年経ったら通常の関係が可能になるという前提で、クライエントはセラピーで安全を感じることができるのか」という議論もあります。また、「一度クライエントになった人はいつでもクライエント (Once client, always client)」と考えるセラピストは、将来クライエントがセラピーが必要になった時には、いつでもセラピストークライエント関係を構築できるように、セラピー終結後も境界線を維持します。私も、必要な時にはいつでも面接室でお会いできるよう、原則としてセラピー終結後もクライエントとの境界線は維持し続けています。