心理学あれこれ

ミラーリングとは

「見られなければ、存在しない」。これは私の考えでは、心理療法の肝といっても過言ではありません。英語で授業を受けましたが、何度も教授が繰り返していました。


If it is not seen, then it does not exist. 
(見られなければ、それは存在しない)

実は、これは著名な小児科医で後に精神分析家となったウィニコットの言葉に深く関係しています。

I am seen, so I exist.
(見られることで、私は存在する)


自分だけでは自分のことを知ることができません。例えば、孤島に生まれた人が生涯一人ぼっちで、他の人間に出会うことなく生きているとしたら、その人には「自分の性格」「自分はどんな人間か」といった概念は育たないでしょう。別の例で言うと、子どもが「ねぇ、見て見て」と親や友達に自分のことを見てもらいたがるのは、誰かの目に映る自分を見ることで、そこに自分を確かめるということです。他者の目に映ったものを自分の一部として取り込んでいくのです。人は他者との関わりの中で自分を形成していきます。

例えば、縄跳びを跳べるようになったばかりの子どもが「見て見て!」と他者に4回跳んだところを見せたとします。他者の目にどう自分が映るか次第で、何を自分として取り込むかが決まります。他者の反応次第で、「4回跳べた」「努力し続けて4回達成した」という自分を取り込む場合もあれば、「周りの迷惑を気にしないで大きな音を立てる」「自分のできたことを自慢する」という自分を取り込む場合もあります。後者の場合、「縄跳びを4回跳べた自分」は存在しないのです。外の世界に映った自分を自分として取り入れる。これは基本原則と言ってよいほど、人間の心理に通底する傾向です。

では自分の中は空っぽで、外の世界から受け入れるだけなのかといえば、もちろんそんなことは決してありません。むしろ誰の中にも豊かな潜在可能性が眠っていて、誰もが自分の可能性を外の世界に表現しながらよりよく生きたいと願っています。これは誰もが持っているエネルギーです。縄跳びの子どもの場合、「4回跳べる自分」を世界に表現したくて仕方ないのです。

問題が起こるのは、自分の内に表現されることを待つ可能性と、外の世界に映る自分とが、大きく乖離し続ける場合です。表現しているのに、気づいてもらえない。もしくは、そのまま受け取ってもらえない。表現すること自体が禁じられている場合もあるでしょう。映し出されるのは自分ではないけれど自分として取り込まなければならない。そして、自分が見て欲しいと望んでも他人の目に映し出されないものは、存在しないもの。それでも自分のうちに、それは確かに存在し続けている。その乖離が混乱とストレスを招きます。

ですから、セラピーでは、クラエントが表現したものが、セラピストによって「ありのままに受け止められ、見られる」ことがとても大切になります。クライアントにとっては、なかなか他では表現できなかったこと、表現したくなかったことを表現するわけですから、はじめは勇気が必要になります。また多くの場合、それは過去に何度も何度も挑戦した挙句、もう他者に見てもらうことを諦めてしまったことや、他者の目を恐れるあまり自分でもその存在を無視してきたことが多いので、それを表現するには様々な感情が伴います。そのために、クライアントとセラピストの間の十分な信頼関係がとても重要になります。言い換えると、セラピストの「ありのままを受け止めて、それを見る」姿勢が必要不可欠になります。

そして、まっすぐに自分を見てもらえた時の気持ち。見てもらうことで自分も見られるようになる、その経験。これが実は、癒しそのものとも言えるほど、大きな内的な変化を引き起こします。

人は自分をありのままに見て欲しいのです。これはセラピーに限ったことではありません。自分を一生懸命に見てくれる人には好意を寄せます。そして、自分のエネルギーを、つまり潜在可能性をまっすぐに映してくれる人を信頼します。これは親子、友人同士、同僚同士、部下と上司の間柄でも、あてはまります。アドバイスをしたり教えたりということが大切な場合もあると思いますが、人間関係の基本に好意や信頼がなければ、なかなかものごとがうまく進まないことはみなさんも経験があるのではないでしょうか。

良い関係を築きたい人がいたら、まず相手をありのままに見ることが大切だと思います。それは自分の持っている価値軸で相手をジャッジすることなく相手の言うこと、することを観察することでもあります。それは一つの瞑想といえるかもしれません。

これはセラピーセッションに限らず、日常生活でも変化を起こすきっかけになります。他人の態度を自分の価値観で判断せず、まず「そのまま」に見てみる。そして次に、そのあるがままの態度の中に可能性を見つけてみるのも一つのやり方です。例えば、「だらしない」ではなく「細かいところにこだわらない、おおらかさ」を、「都合の悪いことを聞かれるまで話さない」でなく「都合の悪いことも嘘をつかずに答える正直さ」を。そういう風に自分の価値軸から離れて見ることで、相手の可能性に気づくことができます。

それでも、どうしても相手のある態度に否定的な価値判断をしてしまう時、その態度はむしろ自分が嫌っている自分の性格であることも多いのです。それを投影といいます。セラピストの訓練の一環として「教育分析」がありますが、これはセラピストを目指す訓練生がクライエントとなってセラピーを受けることを指します。その理由の一つは、訓練生が自分の内的世界をよく理解することで、「投影」を起こすリスクを小さくすることにあります。別の言い方をすると、クライエントの相談内容や態度などに対して「反応」しづらくするためです。解脱した聖人ではないので、訓練されたセラピストでも決して「反応」しないとは言えないのですが、それでも「反応しそうな自分に気づく」ことができるようになります。これは、クライエントを傷つけないために、セラピストの姿勢として最も大切なことだと思います。