海外生活

異なる「場所」からの視点

かつて日本を離れて数年過ごした頃、母語である日本語が少し怪しくなり始めました。例えば、とっさに単語が出てこない時に感じた、母語を操る能力を失い始めているという不安を今でも憶えています。言語能力や感覚は、生活環境から常に影響を受け、何歳になっても変化することを身をもって経験しました。

高校時代に国語の先生が、「外国帰りの人が、例えばロンドンのことを、日本語発音でなく、L (エル)の発音やイントネーショを英語発音のまま “London” って発音して会話するのって、キザな感じがするんですよね。日本語発音の ”ろんどん” でいいじゃないって思うんですけどね。「London に行ってきた」とか言われるとね、なんだこいつ格好つけて、みたいに感じますね」と雑談で話していたことを覚えています。人の良い感じの先生の話を聞きながら、その時は、「そんなものかな」と聞き流していました。

でも、今は思います。「ろんどん(日本語発音)」を英国の首都ロンドンであると認識するのは、「ろんどん→英国首都ロンドン」という連想が受け入れられている地域に住む人だけです。日本を離れて英語圏生活が長くなると、次第に「ろんどん→ 英国首都ロンドン」という連想能力(と呼ぶことにします)が弱まる一方で、「London → 英国首都ロンドン」の連想能力が強化されます。そして、自分が「ろんどん」と発音することに抵抗を感じるようになるかもしれません。なぜかというと、もはやその人にとって「英国首都ロンドン」は「London」であって、決して「ろんどん」ではないからです。

少しわかりにくいかもしれません。もう一つの例を挙げてみます。

似たようなことを、「主人」という言葉をめぐって、私自身が経験しました。日本では妻が夫のことを第三者に向かって話す際に「主人」という呼称を使うことが一般的です。日本で生活していると、「主人→夫」という連想能力が自然に身につきます。しかし、英語圏での生活が長くなると、「husband → 夫」という連想能力が強化される一方で、「主人 → 夫」という連想能力を失っていきます。その結果、奴隷(召使)に対する主人という元来の意味の「主人」としか連想できなくなります(少なくとも私はそうでした)。つまり、無自覚のうちに、「主人→(妻に対する)夫」という連想能力が衰え、「主人→(奴隷に対する)主人」という連想能力のみが残ったわけです。

日本帰国後間もない頃に、ポストに入っていた住宅リフォームの広告雑誌を読んでいた時のことです。写真の説明文に「ご主人様のお好みによってリフォームされたベッドルーム」とありました。そこで私がとっさに思い浮かべたのは、奴隷(もしくは召使い)と生活する「ご主人様」がいて、その主人の希望に沿ったリフォームのアフター写真がこれ、ということでした。その連想に、「え?日本って(奴隷制の)主人っていないでしょ。え?「ご主人様のベッドルーム」?私、何の雑誌を読んでるんだっけ?(汗)」と、私の脳内は確実に混乱していました。ほどなくして「主人→夫」という連想能力を取り戻して、慌てて広告雑誌の表紙を確認していた自分に苦笑する余裕が出てきましたが。

私の専門ではありませんが、上記は記号論に関する現象だといえます。ある文化圏から離れることで、その文化特有の記号が機能しなくなるために、物ごとが違ったように感じるのだと思います。時には新鮮に、時には混乱として。

記号の話とは別にもう一つ、海外滞在後に日本に戻った際に、再認識した感覚について。

それは、日本帰国後に日本の企業に職を得て、まだオフィス出社を始める前に、比較的大きな会議の案内メールを受け取った時のことです。その電子メールの宛名 (To)にもカーボンコピー(Cc)にも人名や部署名の漢字、漢字、漢字。。。それまでは英語のメールばかりでしたので、漢字に埋め尽くされたメールのヘッダー にはある種の威圧感がありました。そして、日本は中華文化圏に属しているのだと実感しました。以下には、試しに英語のみの宛名と漢字のみの宛名を書いてみました。全体としての印象が大きく異なる様子が伝わるでしょうか(人名は架空のものです)。

To: Maria Rothschild, Jim Smith, John Greenhouse, Cathy Roth, Mathew Hillman, James Kahn, Heather Baldwin

宛先: 中川博之,田辺裕樹,広末珠子,池尻信雄,蒲田秋次郎,佐藤敏郎,田中太郎,坂北真司,窪川昂,酒井季子,富山七海

その時に思い出したのは、随分前にロンドンでホームステイした時のことです。その家の女の子(まだ6歳くらい?)が、私の出身について質問したので「日本から来ました」と答えたところ、「日本って知ってる。中国にあるんだよね」というような反応が返ってきたのです。私は驚いて、「いやいや、日本は資本主義、中国は共産主義だし、言葉も違うし、全く違うから」と思ったことを今でも覚えています。でも、ある意味、その英国人の少女の認識は正しかったんだなと、何十年も後になって、漢字で埋め尽くされたメールをながめながら、私はそう気づきました。

同じ場所に居続けると、その場ならではの視点や感覚を獲得できる一方で、失う視点や感覚というのが出てくるのは避けがたいと思います。だからといって、移動し続けることが正解かといえば、決してそんなこともないでしょう。ではどうすればいいのかというと、私が思うには、自分と異なる「場所」にいる人と出会い、対話をすることです。

「気心が知れていて、しかも、なるべく縁のうすいことをしている人が集まって、現実離れした話をすると、触媒作用による発見が期待できる。セレンディピティの着想も可能になる」
(外山滋比古『思考の整理学』p.158)

引用文中の「縁のうすいことをしている人」たちというのが、互いに「異なる場所にいる人」たちだと解せます。安心できる場で、異なる場所にいる人同士が、異なる視点を尊重しながら(現実離れした)話をする。そうすると、触媒作用による発見が期待できる。実は、カウンセリング(サイコセラピー)にもそのような機能があると思いますが、いかがでしょうか。

引用文献) 外山滋比古(1986)『思考の整理学』筑摩書房