アフリカの記憶

以前、といっても、かなり前のことになりますが、仕事で数週間アフリカを訪れたことがあります。私は、子どもの頃から「いつかアフリカに行ってみたい」という漠然とした希望を持っていたので、初めてアフリカの土を踏んだ時のことは、今でもよく覚えています。それは、飛行機のタラップを降りて、飛行場のコンクリートの上に足を踏み出す瞬間の「ついにアフリカ大陸の上に立つ」という感慨でした。

当時はスマートフォンなど存在しておらず、カメラはフィルム式が主流でした。当時の私がスマートフォンを持っていたら、いろいろな場面で写真を撮影し、現在も写真を見ながら思い出を楽しんでいたことでしょう。実際は、自分の記憶が唯一のアフリカの記録となっています。(投稿の中の写真はフリー画像サイトから私の記憶イメージに近いものをお借りしたものです。)

印象深い風景の一つが、ウガンダの首都カンパーラの夕暮れです。少し早く仕事を切り上げたある日、現地で勤務する英国人の同僚が気を利かせて小高い丘の上のホテルに連れていってくれました。電気事情が良くないためにホテル内は薄暗く、長引く不景気に政情不安もあったせいか、ロビーにもレストランにも私たち以外にゲストは見当たりませんでした。その同僚いわく「カンパーラで一番眺めの良い場所」であるレストランのテラスに席をとり飲み物を注文しました。同僚は「ここは安全だから心配ない」と私に言い残してオフィスに戻っていき、ひっそりとしたテラスに座った私は、眼下に広がる夕暮れの街を眺めながら一人でビールを飲むことになりました。その光景が、今でも忘れられないものの一つです。180度開けた視界の隅から隅まで土壁でできた住居が広がっていて、乾いた道路も土壁の家も、淡いテラコッタ色です。夕暮れのオレンジ色ともピンクとも言えない美しいグラデーションの空を背景に、家々からは夕食の準備のための細々とした白い煙が無数に立ち上っていました。「この美しい風景は、これからどれくらいの間、私の記憶の中に留まってくれるのだろう」と考えていたことを覚えています。

もう一つの思い出深い経験は、ジンバブエの都市ムターレから首都ハラーレまでをバスで移動した際のことです。ムターレで現地NGOと仕事をし、ジンバブエ人のスタッフがバスターミナルまで私を見送ってくれました。案内されたバスの上には、山のように荷物がくくりつけられていました。エアコンもなく、車内はジンバブエの人ばかりで肌の色が違うのは私だけでした。私はバスの後方の左側の窓辺の席に座りました。バスが出発して街を出ると、見渡す限りのサバンナが広がっています。所々に木々の生えた見渡す限りの乾燥した土地。進んでも進んでもサバンナが続きます。広大な自然の中を進むバスの中に、完全に孤立した人間社会が存在しているようでした。当時のジンバブエの政情は非常に不安定でしたが、現地の人が安全だと言ったら絶対的に安全なので、バスでの移動自体には全く不安はありませんでした。けれども、どこまでも広がるサバンナを車窓から眺めていると、政情不安とは別の次元で、法治国家といっても、この外界から遮断された環境では人々の良心を信じるしかないな、などと考えていました。

ほどなくして、ボソボソとした音を誰かが口ずさみ始めました。誰が口ずさんでいるのかわからない、さり気ない音が響きます。すると、他の人も次々にそのリズムに合わせ始めます。口をはっきり動かして音を作って拍子をとる人もいれば、小さく唇を動かしているだけの人もいます。バスの中の人が思い思いに拍子に合わせて参加して、それは全体としてまとまりのある音色となっていきました。バスはアフリカ音楽のビートに包まれながら進み続けます。印象的だったのは、「私たち、一緒にビートに合わせて歌っているよね」といった様子は一切なく、窓枠に頭を預け無表情に景色を見ながら、子どもをあやしながら、でもよく見ると口が動いているという風で、皆が各々自然体だったことです。広大な自然の中を行くバスの中で不安を覚えたのは私だけではなかったのかもしれません。拍子を共有して皆で音色に参加することで、バスの中につながりが生まれ孤立感や不安感が和らぐと同時に、その音色が境界線を作って外界から私たちを守ってくれるようでした。人々の奏でる音色に包まれながら延々とづつく午後のサバンナの風景を眺めていると、まるで幻想の中に居るようでした。

そのバスの中に、当時とても気に入っていた黒いサングラスを落としてきたことに気づいたのは、バスから降りて少し経ってからでした。誰かが拾って使ってくれているとしたら、私がバスに乗っていたことが事実として残り続けるようで、むしろ落とし物をして嬉しく感じたことを覚えています。

記憶というのは興味深いものです。サイコセラピーでは記憶を扱います。例えば、トラウマ体験の記憶を再構築(memory reconsolidation)によって脳が処理しやすい形にプロセスし直します。そうすると、その記憶は通常の記憶と同様に「過去の出来事」になり、時間と共に次第に薄れていくことになります。

トラウマ体験のように忘れたいけれども忘れられない記憶もある一方で、忘れたくないけれど時間の流れに抗えず薄れていく記憶もあります。一般的に、その経験に伴う感情が強ければ強いほど、記憶として定着し続けるとされています。私のアフリカの記憶も時々思い出され感情喚起が繰り返されることで、これからも鮮明に私の中に残り続けてくれることを願っています。