ゲシュタルト療法

鵜呑み(境界線の問題①)

ゲシュタルト療法の創始者パールズは、人の内的な混乱の原因は、自己と外界の間に適切なバランスを見つけて維持する能力の欠如にあると考えました。

つまり、本来、外界に属すものを自らの中に取り込んでしまったり、逆に、自分の内のものを境界線を超えて外界へ排出してしまったりすることです。「外界に属するものは外界に返し、自らの内に属するものは自らの内に取り戻す」。これはゲシュタルト療法で度々言われる言葉です。

さて、自己と他者を区切る境界線の設定と維持について、4つの問題となるパターンがあるのですが、今回はそのうちの一つである「鵜呑み (introjection)」を取り上げます。

「鵜呑み」は、本来は外界であるものを自己の内に取り入れてしまっている状態です。人は身体的に食物を摂取しないでは生きられないのと同様に、心理的な「食物」(パーソナリティの基礎となる価値観や態度など)を取り入れないままでは、社会化された人間にはなれません。ですので、心理的食べ物を外界から取り入れること自体が問題なのではありません。問題になるのは、「自分で納得したわけではなく」「環境から強制されて」「消化することなく丸呑みしている」時です。つまり、取り込まれたものが噛み砕かれ消化されて自らのパーソナリティの一部となって働くのではなく、現在も異物のまま自らの中に存在するということです。

鵜呑みによって取り込まれた態度、行動様式、感情や価値判断は、なぜ問題になるのでしょうか。パールズは2つの危険を指摘しています。

一つは、鵜呑みの多い人は、自分の中が異物で溢れかえってしまって、本来の自分らしさを育てる余裕がなくなってしまうことです。鵜呑みには、例えば、「人には親切にすべき」「迷惑をかけてはいけない」「弱音を吐かない」「女性は男性を立てるべき」など、人や世の中のあるべき姿、倫理感といったものが多く、鵜呑みの「べき」「べきでない」ばかりが自分の中に多くなると、一体自分はどう生きたいのかが次第にわからなくなってしまうわけです。

二つ目の危険は、自分というパーソナリティが統一感を持って成長することが妨げられてしまう可能性です。つまり、鵜呑みは自ら選択して消化したものではないので、互いに矛盾する場合があります。例えば「人には親切に」と「人を見たら泥棒と思え」という互いに矛盾する内容を鵜呑みしている場合、人に親切にしながら、心の中で疑うことになります。いわば、自己の内面が戦場のように常に葛藤することになります。

鵜呑みしやすい人が「私は〜と考える」と言うとき、実は、「彼らは〜と考える」という意味の場合が多いのです。実際、「人は〜」「我が家では〜」「世の中というものは〜」などと三人称複数を主語に表現されることも多いようです。

実際、鵜呑みは誰にもあることです。考え方、事実の判断、行動基準、道徳観、倫理観、美的感覚、政治観など、幼少期から全てを噛み砕いて取り入れることはほぼ不可能ですから。その鵜呑みの状態でも、自分にとっても世界にとっても不自由なく創造的な関係が維持されていれば、問題はありません。問題は、鵜呑みによって、人が自分を見失い、身動きを取れなくなる時です。その時には、自分を振り返り、自分が当然としてきた価値観や態度を様々な角度から検討し理解し、それを自分に合う形で再度取り入れるか、もしくは手放すかを決めることが必要になります。

参考)
1) Perls, F. (1973). The gestalt approach & eye witness to therapy. Science and Behavior Books. (日高正宏、他訳『ゲシュタルト療法ーその理論と実際』ナカニシヤ出版)
2) 岡田法悦 (2012) 「実践 ”受容的な” ゲシュタルト・セラピー」ナカニシヤ出版