ゲシュタルト療法

融合(境界線の問題③)

ゲシュタルト療法でいう境界線の融合(confluence)というのは、自分自身と外界との境界を感じられない状態、あるいは自分と外界が一つであると感じる状態を指します。一言でいえば、境界線がない状態、「無境界」です。

何かにとても集中しているとき、または宗教的儀式などにおいてはこの融合の状態を感じることができます。アーティストのコンサートで会場が一体になる感覚も融合だと言えます。通常は自己と他者の境界を明確に感じているだけに、この一時的な融合の感覚がことさら強烈に高揚感を生み出すのでしょう。

しかし、この一体感が慢性化すると、人は自己と外界とを区別することができなくなり、自分自身を感じられなくなります。自分が何者かを言うこともできず、他者が何者であるかも言えない状態です。また、自己と他者の境界がわからない、つまり、どこまでが自分でどこからが他者なのかが不明瞭なため、他者とよいコンタクトを持つことが不可能になります。

「私がこう感じるのだから、相手も当然そう感じるはず」。これが融合の例の一つです。「自分が良いと思っていることは、みんなも良いと思っている」と信じて疑わない、押し付けがましい親切も融合の状態です。そして、極端な融合状態では何でも同一でないと気が済みません。自分の子どもを単に自分の延長物としか思わない両親にもみられます。両親と融合せず、期待に応えられない子どもは拒絶され疎んじられることになります。ミスティフィケーション は、親が子どもの主体性を奪いコントロールする過剰な融合の状態と考えることもできそうです。

同質傾向が強く、主語が省略される傾向が強い母語をもつ日本人は、融合の傾向が強いと考えられます。「空気を読む」は、まさしく融合を前提にした相互への期待と言えます。融合、つまり無境界であるということは、自分と他人がまざりあった混沌とした世界ですから、それぞれの個性や独自性をぶつけ合い、切磋琢磨しながら互いに成長するような創造的な関係は成り立ちにくいと考えられます。

融合の傾向の強い人は、「私にはあなたの感じていることが手に取るようにわかる」「何も言わなくても、私にはあなたの気持ちがよくわかる」「みんな同じに〜と感じている」などの表現を使います。

スポーツの試合中に感じるチームの一体感など、融合の状態は必ずしも不健全であるとは言えません。しかし、それが慢性化してしまうと奇妙な優越感や偏見に根差した仲間意識になる危険性があります。一旦、融合状態に取り込まれると、一人だけ境界線を引き直して自分だけ分離することが難しいため、融合の状態をあえて意識しないでおこうという傾向が生じやすいようにも思います。

参考)
1) Perls, F. (1973). The gestalt approach & eye witness to therapy. Science and Behavior Books. (日高正宏、他訳『ゲシュタルト療法ーその理論と実際』ナカニシヤ出版)
2) 岡田法悦 (2012) 「実践 ”受容的な” ゲシュタルト・セラピー」ナカニシヤ出版