正しい言葉とグレーゾーン

外国語を学ぶ時、おそらく大部分の人は教材を使って「正しい」外国語を学ぶことから始めると思います。そして、習得した言語を実際に使ってみて自分の言葉が相手に通じて嬉しく感じることもあると同時に、多かれ少なかれショックを受けることも避けがたい、そんな過程を繰り返しながら語学習得を続けていくのではないでしょうか。

タイ語の挨拶「サワディー(こんにちは)」は聞いたことのある人も多いかもしれません。男性なら「カッ」、女性なら「カー」を語尾につけることで丁寧語となります。つまり男性なら「サワディーカッ」、女性なら「サワディーカー」となります。また、「カッ」や「カー」は語尾につくだけでなく、単独で応答表現の「はい」の意味も持ちます。

かつて私もタイに住んでしばらくは、この「カッ」や「カー」を教科書通りに使うことで問題なく過ごしていました。しかし、ある時、母親のように慕っていた同僚のタイ人女性に話しかけた時に、彼女は私の方に振り返りながら、こういったのです。

「じゃー?」

その場面を今でも思い出せるほどなので、当時の私にとってはかなりの衝撃だったのでしょう。「じゃー?」と言いながら笑顔でこちらを見る彼女を見ながら、「カー?」でなくて「じゃー?」とは一体何なのか、彼女の個人的な表現方法なのかと戸惑っていました。日本語では、「じゃー」という響きは「まんが日本昔ばなし」くらいでしか聞くことのない音でしたので、はじめのうちは正直なところ「おじいさんとかおばあさんが話しているみたい」と感じていました。

後になって、この「じゃー」は親しい間がらで使われる表現であることを知りました。例えば「ありがとう(コープクン)」は丁寧表現では「コープクンカッ(男性)」「コープクンカー(女性)」ですが、それが親しくなると「コープクンジャー」になるのです。しかし当時は手持ちのタイ語テキストを読み返しても「じゃー」に関する記述は全くなく、なぞな表現のままでした。つまり、「じゃー」は教科書的な「正しい言葉」ではなかったのです。

ちなみに、タイでの滞在が長くなるにつれて、意外にも「じゃー」と返答されることに嬉しさを感じるようになりました。特に、男性の「カッ」は短く鋭い響きがあるので、それまで「カッ」と応答していた人が、リラックスした音感の「じゃー」と返答してくれる時には、「親しい仲間」に加えてもらえたような感じを受けました。

考えてみれば、人間関係の距離を言葉によって表現するのは自然なことです。そして、上下関係を重視する文化であるほど、敬語表現が複雑になることもうなずけます。私はインドネシアに住んでいる時に、2週間集中講座でインドネシア語を学びましたが、インドネシア語は基本の基本だけを学ぶという前提であれば、意思疎通するレベルには比較的早く達することができると言われます。しかし、相手との人間関係を反映した適切な敬語表現を学ぶことは外国人には至難の技とも言われます。というのも、インドネシア語には敬意を表す接頭語と接尾語が数多くあり、相手への敬意が増すにつれ、語幹に付け加えられる接頭語と接尾語が増え、結果として文章全体が長く複雑になっていくからです。つまり、文法的に明らかに間違っているとは言えないけれども文化的に適切でない表現、というグレーゾーンが大きいわけです。(ちなみに、短期間で覚えたものは短期間で忘れると言われるそのままに、今でも覚えているインドネシア語の単語はほんの数えるほどです。)

フランス語でも、初めは相手を「あなた vous」と呼び、親しくなると「きみ tu」と呼びますが、どのタイミングで切り替えるかは、フランス人も迷うことがあるようです(日本語でも敬語をめぐって同様の迷いを感じたことは誰にもあるかもしれません)。また、あまり人間関係の上下にこだわらない文化の人が外国語としてフランス語を話す場合、比較的早い時点で「vous」から「tu」に切り替えた結果、相手に「vousを使ってほしい」と苦言を呈されたという話も聞いたこともあります。ここにも「正解」のないグレーゾーンが存在します。

さて、フランス語での学ぶ言葉と使う言葉のギャップという点では、動詞の否定形があります。フランス語では、動詞を否定する際には「ne」と「pas」で動詞をはさむ必要があるというのが教科書の教える「正しいフランス語」です。つまり、

「ne +動詞+pas」

となります。日本語は「動詞+ない」で動詞を否定できるので(例えば「知ら・ない」)、それに慣れている私にとっては、まず「ne」を言って、それから「動詞+pas」を続けることが面倒でしたし、とても難しいと感じていました。

ところが、いざフランス人の日常会話を聞いていると、「ne」を省略して話すことが普通であることに気づき衝撃を受けました。つまり、「動詞+pas」だけで良く、日本語の「動詞+ない」と同じ形になるのです。始めからそう知っていればどんなに楽だったかと、大袈裟でなく「教科書に裏切られた」という気持ちがしました。かつて「じゃー」を教えてくれなかったタイ語のテキストといい、初学者には正しいフランス語やタイ語を伝えようという意図は理解できますが、せめて欄外の注でよいので、一言書いてくれていたら、あのショックは和らいだのに思います。

学ぶ言葉と使う言葉とのギャップに関連して、もう一つ。かつて私が日本の大学院生だった頃、留学生が話してくれたことです。日本に留学する前から日本語を熱心に勉強してきたその友人が、日本に来て間もない頃、同級生からご飯に誘われているのがわからず、非常に戸惑ったという話です。その時、日本人の同級生は、こう言ったそうです。

メシクッタ?

「今はもうわかりますけれど、その当時は、教科書で習ったように、もう食事はすみましたか、という表現しか知らなかったので、飯食った?と言われても全く理解できずにショックでした」。その時は笑い話として話してくれた友人ですが、その話を聞きながら、かつて入門レベルの日本語テキストを読みながら、「この例文、いまひとつ不自然だな」「この表現は、日本語としては正しいけれど、私はあまり使わないな」と感じたことを思い出していました。

考えてみれば、敬語を含めた「正しい表現」というのはある程度幅があるのが言語としては自然なのかもしれません。けれども、日本で外国語の教育を受けると、そういった感覚がなくなる傾向があるように感じます。例えば、「埋め合わせる、補う」といった意味の熟語の「make up for」の問題で、かっこの中に適当な前置詞を入れよ、いった質問があったとします。

make up ( )

英語の試験では「for」が正解で、それ以外の前置詞は全て絶対に間違いになります。それはそうなのですが、かつて私が、イギリス人の友人に聞いたところ、その友人は、複数の前置詞を入れ替えては口に出して響きを確認した後で、やっと「forだ」と答えたことを印象深く覚えています。なぜ印象に残ったかといえば、英語が母語の友人であれば、即座に「正解はforだ!」と答えられるはずだという思い込みがあったからです。あれ、英国人なのにすぐには答えられないんだ、という事実を目の当たりにして驚きました。逆にいえば、「for」以外の前置詞を入れて話したとしても、文脈から意味は伝わる可能性があり、またそれほど変な響きではない可能性もあることに気づいた瞬間でした。確かに、日本語を学ぶ外国人の友人と話していると、「意味は伝わるけど少し不自然な日本語表現かも」というグレーゾーンの存在を感じることがあります。そういった場合、即座に何が間違っているかを指摘することは難しく、「間違ってはいないけれどどこか不自然かも?」という感覚だけが残ります。それは、単に文法だけでなく、私個人の好み、時代や文脈などからも影響を受けている感覚だと思います。他の言語にもそのようなグレーゾーンは実は広く存在しているのではないかと感じますが、日本で教科書から外国語を学んでいくと、そのグレーゾーンの存在を感じることがなく、正解以外の「間違った」表現を過度に恐れるようになるのかもしれません。 

このグレーゾーンは、言語に限らず、どの分野にも存在するのではないでしょうか。正しくもないけれど間違ってもいない、その間の領域を進むことは、ある意味、勇気がいることかもしれません。けれども、グレーゾーンを意識的に探究することは、意外に効率の良さや生きやすさに通じることもあるかもしれませんし(フランス語のneを落とす)、気づかなかった奥行きを与えてくれるかもしれません(タイ語のジャー)。正解がわからない時には黙ってしまうのではなく、まずはグレーゾーンを意識的に探究してみることは、生きる領域を広げて豊かにする方法に通じるように思います。