カウンセリングとは① 二元論からの自由

通常、私たちは意識しないままに、ものごとを「良い/悪い」「明るい/暗い」「太い/細い」などの二元論の価値軸で判断しながら生活しています。それに対して、サイコセラピーは二元論から離れた場です。つまり、「良い/悪い」「高い/低い」「広い/狭い」等々の価値軸を使って、対象をその価値軸の両端のどちらかに位置付けることから自由になれる場です。カウンセリングは非日常の場であると言われますが、これは価値判断からの自由という意味合いが大きいと思います。

価値判断からの自由というのは、言うのは簡単ですが実践するのはそれほど簡単ではありません。というのも、私たちの意識は二元論に基づき世界を経験することがその基本的な習性だからです。これは、人間が進化の過程で生き残りに必要だったために発達したと考えられます。

私たちの遠い祖先が生活していた環境では、例えば遠くから黒い物体がこちらに向かって走ってきた時には、それが「良いのものか、悪いものか」を瞬時に判断して行動しなければなりません。「あれは熊か?熊なら危険だけど皮は欲しいし。。でも違う動物にも見える」などと逡巡しているうちに命を落とす危険があったからです。つまり、「良いか悪いか」を一瞬にして判断する能力が生き延びるために重要だったのです。

今日でも私たちの意識には、日々の生き残りが最大の関心事だった時代の習性が色濃く残っているのです。そして、二元論の価値判断の積み重なりで私たちの世界は構成されていると言っても過言ではありません。

この二元論を基礎とした意識の働きのおかげで、人類は今日の「繁栄」を手にすることができたと考えることができます。なぜなら、二元論的思考は単にものごとを価値軸の両端のどちらかに分類するのではなく、そこには優劣の価値判断が伴うからです。そして多くの場合、人々は優れてた価値を持つ方に惹かれます。「古い」と「新しい」なら「新しい」方へ、「不便」と「便利」なら「便利」な方へ、といった具合に。しかし、良いことだけというものは滅多にないもので、意識も例外ではなく、意識によって人は苦しみも背負うことになります。

なぜなら、先にも挙げた「二元論の価値軸」で自分と世界を縛りすぎてしまうと、本来の自分のスペースがどんどんなくなってしまうからです。「速い/遅い」「高い/低い」「広い/狭い」の価値軸で言えば、自分は「速い、高い、広い」でいる「べき」だという思考です。

この意味では、カウンセリングは数多くの価値判断の積み重ねによって失われた柔軟性を取り戻す取り組みとも言えます。少しずつ緩めて、狭くなりすぎた自分自身のスペースを取り戻す仕事とも言えるかもしれません。柔軟性を取り戻し、自分本来のスペースが広がってくると、選択肢が増えていきます。そのプロセスには、言語/意識レベルでの介入で十分に効果的な場合もありますし、それだけでは不十分で無意識にアクセスすることが必要な場合もあります。後者の場合、私のカウンセリングのセッションでは、身体感覚やイメージからクライエントの無意識にアクセスするアプローチをとることが多いです。

いずれの場合にも、カウンセリングが非日常の場になるためには、心理カウンセラー(サイコセラピスト)が二元論に基づく価値判断から自由であることが必須になります。セラピストは、クライエントの話に対して価値判断をしないように訓練されています。もちろん、人間ですのでどのような話にも価値判断を持ち込まないことは難しい場合もありますが、それでも自分の価値判断を持ってクライエントの話に反応しそうな時には、そのことに気付くように訓練されています。セラピストが訓練の過程で自らサイコセラピーを受けるのは(米国大学院では必須です)、このためです。