追想録を読む

週刊誌を定期購読しています。実は、あまり読まなくなっていたので切りのよいタイミングで購読を中止しようと思っていましたが、うっかり手続きを忘れてしまい、現在も毎週届きます(もったいないので、現在は読むようになりました)。

ほとんど読まなかった時期も、そして以前よりはよく読むようになった現在も、ほぼ必ず、一番はじめに目を通す記事があります。それは、冊子の一番最後の記事で、「obituary」つまり、亡くなった人物の「死亡記事」です。死亡記事といのはあまりに直接的な表現なので、ここでは以下、追想録とします。

今週の追想録は、エチオピアで貧しい子ども達の教育に生涯を捧げた男性の話です。自分自身も貧しい家の出で、村にいても自分の将来は開けないと考え、9歳の時に親にも告げずに首都に出ます。日本で言えば、まだ小学校3年生の子どもです。そして、努力と運に助けられ、正規の小学校で教育を受けるチャンスを得ます。その後14歳の時に、学校前の空き地で学校に通えない子ども達に文字を教え始めたことが、彼の教育者としてのスタートでした。読み書き算盤だけでなく、野菜の栽培や家畜の世話など自立した大人になるために必要な教育を行い、また、貧困のために労働力である子どもを学校にやることが困難な家庭には学校で育てた野菜などを提供することで子どもの教育機会を確保しました。卒業時標準試験の点数も国内トップクラスで、彼の学校は評判を呼び、皇帝から土地を与えられ、一般からの寄付にも支えられながら大きくなります。2020年までに教育した子どもの数は12万人にのぼります。

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また、先週は、インドのバンガロールという都市で、本屋を38年にわたり営んだ男性の話でした。叔父の営む本屋で働くようになったのは、村出身の少年にとってそれが最善の仕事だからに過ぎなかったのですが、その後自分で本屋を開いてみると、それが彼にとって天職になります。山のように積まれた店内の本について彼は正確に記憶しており(下記リンク先の写真で店内の様子がわかります。並外れた記憶力だったに違いありません)、また、顧客の「心理的記録」を彼は頭の中に持っていて、その顧客に合う本を紹介しました。その結果、顧客は「クリケットの本を買いに行き、マルクスの本を買って店から出る」というようなことがよく起こりました。また、彼は気前の良さでも知られ、いつでも本は1割引きで売られ、さらに貧しい学生には本を売る代わりに貸したそうです。本屋というよりむしろ街のライブラリアンであったと記事にあります。そして、顧客の中には、後に有名になる詩人は歴史家になる人物もいたそうです。

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この雑誌では、これまでに他にも、大道芸人、大詐欺師、元宇宙飛行士など、さまざまな人生が追想されてきました。

私がなぜ追想録に強く惹かれるのか、自分でも不思議でしたが、この投稿を書きながらその理由を考えてみました。一つの理由は、違う文化、違う時代の人生を追体験する感覚、そして写真もヒントにしながらその人物像を想像することが、自分にとても響いてくるからだと思います。記事にはその人物についてだけでなく、周りをとりまく家族や友人などについても書いてあることが多く、そういった人間関係についても想像をふくらませます。

こう書いていて気づきましたが、これはカウンセリングでセラピストとして私がしていることと似ているかもしれません。つまり、クライエントの話を聴きながら、クライエントの人生や人間関係にまつわることを追体験しながら想像する、という一面です。多分、私の脳の中に、そういった自分以外の人の人生を生きてみるような経験に対して、とても活性化する部分があるのだと思います。他方で、小説の楽しみの一つは自分以外の人生を経験できることだとよく聞きますが、私の場合、残念ながら小説からはあまり響きは感じられません。小説も雑誌も同じ文字情報なのに、不思議です。

もう一つの理由は、ヒルマンの「どんぐり理論」にもあると思います。「どんぐり理論」にご関心があれば、下記リンク先の「カウンセリングと霊性」というタイトルの投稿をご覧ください。

ちなみに、この雑誌を購読して随分経ちますが、以前に比べてこの追想録が白人男性を取り上げる割合が減ってきたように感じます(記録をとっているわけではないので、あくまでも私の印象ですが)。つまり、ネイティブ・アメリカンや、アフリカ、アジアの人々、女性の追想録が増えてきて、アジア人でかつ女性である私の脳は、自分と距離感の近い人々の追想録に接してより活性化するのかもしれません。