エンカウンター グループと共感

私はエンカウンター・グループを主催しています。正確には、世間では「哲学対話」と呼ばれる対話の場です。「哲学対話」と言えば、ある程度何をするのか理解してもらえるので便宜上「哲学対話」と呼んでいますが、私の中では「エンカウンター・グループ」と位置付けて開催しています。そこでは、発言している人の話を聞き手が価値判断せずに、共感的態度を持って互いの話を聴き合います。私は進行役ですが、別に何をするのでもなく、一参加者として耳を傾けます。

価値判断をせずに、他者の発話に耳を傾ける、その人が何を言わんとしようとしているのか想像しながら聞いてみる、そうすると、自分の中にも変化が起こりやすいように思います。共感的な場では、話し手の発言に聞き手の感情が揺り動かされるからです。

実は、昨日も哲学対話があったのですが、そこでの対話をきっかけに、私は大きな気づきを得ることができました。哲学カフェの後に昼食をすませ、運動不足解消のために自動車と競争するくらいの気持ちで自転車を無心で走らせている時に、「!」と気づいたのです。午前中の対話がきっかけになっていることは明白でした。対話の力ってすごいなと思いました。

面白いのは、この「気づき」は、既に知的には自分で理解していた点です。ですから目から鱗という種類の気づきではありませんでした。ただ、他者に共感しながら聴くことで、感情とともにその意味を確認することができたのだと思います。「感情とともにその意味を確認する」こと、これは気づきを得たり、癒しを得たりするのに大切な点です。

過去の経験を書き換える際に重要な働きを果たすのが感情だといわれます。ある経験の記憶には、視覚、聴覚など五感からの情報、さらにその時の自分の気分、体調など膨大な情報が関与していますが、それらを一つのまとまりとして相互関連づけ「記憶」にするのは感情の役割だからです。逆に言えば、記憶の書き換えには感情レベルでの関与が欠かせないのです。

自分のことについて語る時、「説明はするが告白はできない」というタイプの人がいます。ここでの「告白」というのは、自分を主語にして感情面も含めて語る、自己開示のことです。対して、説明とは、時に一般論や学説などに言及しながら言葉巧みに自分の意見を論じることです。そのような説明をいくらしても、おそらく深い気づきに至る経験には結びつかないと思います。なぜなら、説明は「頭」でするもので「心」は使わないからです。

対話の力は、対話が終わってから後々まで効果があることが少なくありません。カウセリング でも、そういうことが多々起こります。対話でもカウンセリングでも、そこに共感的な態度で参加する、つまり感情レベルで関与する点が共通しています。カウンセリングでいえば、クライエントとの関係性に共感的に関与しているセラピストは、自らも変化し続けるということです。変化するのはクライエントだけではありません。