日常生活を円滑に過ごすために、社会の規範にある程度従うことは必要だと思います。だた、何を規範とし、どの程度従うのか、これは実際は意図的に決めているのではなく、無意識の刷り込みの場合が多いように思います。
米国留学中に、けっこうな頻度で驚くことに出会いましたが、それは私の「刷り込み」の裏返しです。
例えば、大学院で、椅子に足を乗せ、それも靴を脱ぎ、さらに親指のところに穴の開いている靴下を履いた足を投げ出して、授業を受けること。さらに、それが女性であったこと。
別の例では、授業で瞑想をした時の出来事で、使ったクッションを授業終了後に教室の隅に重ねて片付けるのですが、男女だれもが「投げて」重ねていくこと。音もするし、埃も気になるのは日本人の私だけだったのでしょうか。
さらに、バスに乗車中、バス停のないところでバスが停まったので、「?」を思って様子を観察すると、バスの運転手が席から立ち上がって、バスの昇降口から目の前のポストに手紙を投函するのを目撃したこと。
きりがないので最後にしますが、私の銀行口座からの引落しが、同名の他人の口座から引き落とされていた件(!)で電話があったのですが、担当者はアメリカンな雰囲気全開で「ハーイ、ミズ・スズゥーキー!」という口調で始終明るく、内容は状況説明のみで、謝罪の表現が全くなかったこと(謝られないから、これは大した問題ではないのかも、という錯覚に一瞬陥りそうになりました)。「銀行なのに!」という驚き。
裏を返せば、私には、授業中に椅子に足を乗せるべきではなく、穴の開いた靴下ははくべきではなく(特に女性は!)、座布団を片付ける時は丁寧に重ねるべきであり、バスの運転手は勤務中は運転以外はするべきではなく、銀行はミスすべきではなく、万一銀行はミスをしたら丁重に謝罪すべき、という無意識の規範の刷り込みがあったことになります。
私は米国留学前にも複数の国に住んだ経験があったので、それなりに自分の「すべき」の刷り込みに気づく経験はあったと思っていたのですが、米国はさらに自由でした。気づけば、私も空いた電車では、ボックス席の前の座席に足を乗せていたりして(特に足が疲れている時は合理的な行為かと)。
発達障害の診断には「日常生活に支障をきたしているか」という項目が重要な判断軸になりますが、「べき」の多い日本では発達障害とされる範囲が広いというのも納得がいくなと思いました。「べき」が多い社会は、実は多くの人が本音では窮屈な想いをしながら、表面上のスムーズさ、効率さを優先しているように見えます。
皆さんが自分の無意識の「べき」に気づくのはどんな時でしょうか。