メンタライジング (1)

メンタライジング(mentalizing)という言葉は聞き慣れないかもしれません。メンタライジングという言葉自体は16世紀から17世紀頃に既にあったのですが、神経科学の発展に伴い1980年代の終わり頃から頻繁に使われるようになりました。今日では心理学は神経科学と密接に関連しているので、臨床心理学の分野でもメンタライジングという言葉が頻繁に使われるようになってきました。

メンタライジングとは

メンタライジングとは、自分自身や他者の心(考え、感情、欲求や信条など)を理解しようとすることです。誰でも毎日やっていることですから、当たり前すぎて逆にわかりにくくく感じるかもしれません。授業で初めて説明を受けたときには、クラスの大学院生の反応は一様に「え?」という感じの沈黙でした。教授も「当たり前すぎるかもしれないけれど、これはセオリー・オブ・マインド(Theory of mind)と言って、近年注目されている概念なのだ」」と前置きをしていました。

当たり前にやっているようでいて、「あなたは自分や他人の心をどのようにして理解しますか?」と改めて問われると、答えるのは難しいのではないでしょうか。なぜなら、実は私たちは無意識のうちに自分の心を理解し、相手の心を理解し、それに基づいて行動しているからです。もちろん、ここでの理解とは完全な理解ではなく、「意味付けをする」といった意味合いです。例えば、相手の表情に意味づけをしてその人の心(感情や考えなど)を「自分なりに」理解する、そのプロセスがメンタライジングであり、大半のメンタライジングは無意識に行われています。

アタッチメントとメンタライジング

この「自分なりに」という点が鍵になります。というのは、そこには解釈が入ってくるからです。例えば、一歳の子どもの誕生日にケーキを焼いてテーブルの上に置いた瞬間に、その子どもがケーキに顔をうずめたとします。子どもの顔はクリームだらけ、クリームの間から目を覗かせ、親の顔を伺っています。親がこの子どもの行為を「ふざけて楽しんでいる」と解釈すれば、それは笑いを誘う一場面になるでしょうし、「一歳のお祝いを台無しにした」と解釈すれば怒りや悲しみといった反応を引き起こす場面になるでしょう。「親なりに」子どもの心を理解した結果、まったく違う展開の可能性が生まれます。

さらに、親の反応を見て子どもは自分の心について学習します。つまり「自分は、楽しくふざけていたのだ」という理解になったり、「親の気分を台無しにする悪いことをしたのだ」という理解になったりします。このような経験の積み重なりが、自分の心をメンタライジングする基礎を作っていきます。そして、それに応じた反応を返すことで、親子間のコニュニケーションは展開を続けて行くでしょう。

このように、無意識のメンタライジングは直感的瞬間的になされる一種の情報処理プロセスとも言えます。それが繰り返されることで、自分と他者に対するイメージ、世界に対するイメージを形成していくと考えられます。極端な例でいうと、子どもの想定外の行為を常に「ものごとを台無しにする悪い行為」と解釈し、それに基づいて子どもについてメンタライジングする親の元では、子どもは「自分の自発的行為は常に脅威を呼ぶ」という意味付けを無意識に学習していくことになると考えられます。子どもは親の反応の中に自分の行為の意味を見つけていくからです。

「ほどよく良い (good enough) 」こと

親が子どものことを主体性を持ち自分の判断に誇りを感じている独立した個人として見ることなく、常に親の考えを押し付けることによってメンタライジングをした場合には、思春期以降になって子どもが精神的に問題を抱えることが多くなる傾向が研究で示されているそうです。それは、ある程度予想のつく結果のようにも思いますが、それでは、親はどれくらい正確に子どもの心をメンタライジングする必要があるのでしょうか。

アタッチメントとメンタライゼーションの分野で著名なフォナギー博士は、ビデオの中で(下記にリンクしています)、博士自身、自分の子どもの心を正しく理解できているのは50%くらいだと思うと述べています。同時に「常に完璧に親に理解されて育ったとしたら、子どもは人生に対して十分に準備ができなくなる」とも述べています。また、参考に上げている動画では、安心型アタッチメントスタイルの母親が正確に子どもをメンタライズしている割合は30%程だと指摘しており、それでgood enoughなのだと述べています。同時に、70%の「不正確な」メンタライジングが刺激となって、子どもは母親のこころをメンタライズしようとすると続けています。

できるだけ正確に子どもの心を理解できるに越したことはありませんが、一つの考えに決めつけず、いくつかの代替案も意識的に用意できると良いのかもしれません。例えば、子どもが誕生日ケーキに顔を突っ込んでしまった場面で、「ふざけている」「試してみたかった」「眠かった」など、子どもの心を想像するための複数の選択肢を持つということです。これは、親と子どもに限らず、人間関係一般にも大切なことだと考えられます。

さて、心理学の分野でしばしば使われる言い回しに「good enough」がありますが、日本語では「ほどほど」と訳されることが多いようです。これは、英国の著名な小児科医であり精神科医であるウィニコットが子育ての文脈で使った「good enough mother」という表現からきていて「(完璧ではなく)ほどほどに良い母親」といった意味合いです。ウィニコットによれば、母親が乳児の欲求に応えているうちは乳児は母親や世界が自分と一体であると感じています。しかし乳児が成長し欲求が複雑になるにつれ、母親がその欲求にに完全に応えられなくなります。このことによって乳児は母親が自分とは別個の存在であることを次第に認識していくとされ、このことは自己と外界との健全な関係を築くために必要な過程だと考えられています。したがって、親は「完璧でなく、ほど良い」くらいがちょうど良いということになります。アタッチメント理論でもこのgood enoughの感覚が大切ということだと思いますが、同時に、このgood enoughというのは簡単に把握しにくい概念とも感じる方もいるかもしれません。

good enoughは完璧ではなく間違いもする、という状態です。good enoughである前提では間違っても大丈夫だということですが、同時に間違った時にはその間違いによって傷ついた関係を修復することが大切になります。臨床心理学では、自分の過ちを謝ったり、傷つけた相手の気持ちに共感したりといったことで、関係を修復すること自体にも大きな意味があると考えます。つまり、「関係というのは傷つくこともあるが修復が可能で、一度傷ついた関係でも双方の努力によって継続させていくことができる」ということが学習されるからです。

終わりに

先にも触れましたが、メンタライジングの大部分は無意識に行われています。自分や他者、そして世界への意味付けが自動的に行われた結果、反応的に行動し、それが日々の生活に生きづらさにつながっている場合もあるかもしれません。メンタライジングはその大半が無意識であることから、身体からのアプローチも有効であると考えられています。当オフィスのサイコセラピーでは、無意識のメンタライジングのプロセスを探求することでそのプロセスを少しずつ意識化、変容させていくことが期待できます。

参考)Introducing Mentalizing for AMBIT, The AMBIT programme, the Anna Freud National Centre for Children and Families. (2023/11/27 閲覧)