自我の防衛のうち、知性化、合理化、道徳化は、いずれも成熟した防衛と分類され、「認知によって感情を遠ざける」という点が共通しています。これら防衛は、他のこれまでの防衛と同様、誰もが日常的に使っているものだと思います。
知性化 (Intellectualization)
知性化は、「感情の分離」(以下、分離)よりも一段成熟度の高い防衛です。防衛として分離を使っている人は感情を感じないのですが、知性化を使っている人は感情について非常に無感情的に語ります。例えば、そんなこと何でもないといったように超然と「もちろん、そのことつについてある程度の怒りは感じましたよ」といった風に。つまり、その人にとって、怒りを感じるということは理論的には受け入れられるのですが、それを表現することは抑制されているのです。まるで他人事のように自分の感情について語ります。
衝撃的な感情の揺さぶりを分離によって防衛するように、知性化は通常の感情の(大き過ぎる不快な)揺れに対しての防衛です。ストレスがかかった時に反射的に対応するのではく、知性化によって自分の行動を抑制できることは、成熟の一つの証と考えられます。また、感情が大きく昂る場面で、知性化によって理性的に思考する能力は自我がかなり強いことを意味し、その感情を揺さぶる状態を最終的には感情的に消化することができるのであれば、この防衛は効果的に作用したと言えます。
しかし、知性化の防衛に過度に依存しすぎると、感情が大きく動く場面でも無感情で知性的な反応に始終することになり、周囲の人に感情を押し隠す人という印象を与えます。そして、ウィットに富んだユーモアや芸術的な表現など「遊戯、あそび」の要素が著しく欠けた生活を送りがちになります。
合理化 (Rationalization)
合理化は日常でもよく使われる防衛です。一言でいえば、自分の都合の良い理屈をつけることです。希望が実現しなかった時や期待したものが手に入らなかった時に「そもそも、それほど望んでいなかった」と理由づけする場合や、何か悪いことが起きたときに「それほど悪いことではなかった」と理由づけする場合があります。例えば、家を購入したかったけれど金額が予算に合わず見送らざるを得ない時に、「どっちにしろ、その家は私たち家族には大きすぎる」と理由づけしたり、悪いことが起きた時に「高い授業料を払ったのだ」と考える場合などです。
知的で創造的な人ほど、この合理化の防衛を効果的に使います。合理化は、困難な状況を感情面で否定的に感じないようにしながら対処するのに役立ちますが、何についても合理化することは可能なので、その点では注意が必要です。「ただやりたいからやったけ」だと認める人は少なく、最もらしい理由づけを好む人が大半です。子どもを打つ親は自分の攻撃性から目を背けて「子どもの躾のため」と理屈をつけ、またダイエットに何度も挑戦する人が自分の虚栄心に目をつぶり「健康のため」と理由づけするなど、合理化には際限がありません。
道徳化 (Moralization)
道徳化は合理化に近い防衛です。合理化するとき、その人は自分が受け入れられる理由を探すわけですが、道徳化では、それをすることが自分の道義上の義務や務めであるという理由づけを探します。例えば、なにか失望する体験をした時に、合理化では「授業料を払った」と理由づけする時、道徳化では「(失望という経験によって)人格が磨かれる」と考えます。
自分のやりたいことを最もらしく道徳化する人に対して、周囲は少し滑稽だと感じたり、なんとなく嫌悪感を持ったりします。例えば、植民地支配をする国は、相手国の資源を搾取しているのにも関わらず、「より高い文明を(相手国の)人々が享受できるようになる」と道徳化します。ヒトラーは、自分自身の欲求を満足させるために、ユダヤ人や他の民族を抹消することは、人間の倫理的精神的な改善に資するという道徳化によって、驚くほどの数の大衆を煽動しました。近年の米国では、テロへの戦いという名目(道徳化)の下、長年培ってきた人権の尊重が廃棄されました。
これらほど破壊的でない道徳化の例としては、部下を激しく叱責する上司が、率直に部下の改善点を指摘するのは上司の責務であると考える場合です。また、デザイナーが高額な整形手術を受ける際に、顧客に魅力的な容姿で接することは職業上の義務であると考えることも道徳化です。本当は自分のやりたいことであるけれども、その元にある攻撃性や虚栄心を道徳上の義務にうまくすり替えています。
また、道徳化は、高度な「分裂」であると考えることも可能です。分裂という防衛は、対象を「全て善」もしくは「全て悪」と認識する心理的作用です。両価性、つまり良い面も悪い面もどちらも含む全体として物ごとを認識することができない幼児は、分裂によって自我防衛をしますが、道徳化をその高度な形式だと考えるわけです。道徳化には、超自我の影響を感じます。超自我は、「すべき」「すべきでない」と自我に向かって禁止や命令を繰り返す存在ですが、道徳化はこの超自我の影響を受けて「道徳的に正しいことをする私」によって防衛をします。そこには、他者を「(私の超自我の基準による)道徳的な行いをしない他の人々」と見て、自分を「善」、他人を「悪」として無意識に比較する超自我の性質が垣間見れます。
参考)
McWilliams, N. (2011). Psychoanalytic diagnosis: Understanding Personality Structure in the Clinical Process. (2nd. ed). New York: Guilford press.