心理学あれこれ

出産前後の母親の心

英国の小児科医で精神分析医でもあるウィニコットは、出産前後の母親の心の状態を「Primary maternal preoccupation」という概念で説明しました。日本語で「母親の原初的没頭」と訳されます。

「原初的没頭」が意味するのは、平たく言えば「全身全霊を傾けて、生まれたての乳児の要望を感じ取り、それに対応しようとする心の状態」です。当たり前のようにも感じるかもしれませんが、これは非常に特殊な状態です。

まず、言葉を使えない乳児の要望を理解するためには、表情や泣き声の調子から微細な仕草に至るまでの全てを見逃さないように、五感プラス第六感を総動員する必要がある、つまり無意識的なコミュニケーションも重要であること。また原初的没頭によって、母親は、乳児の自我が形づくられる過程を保護する環境としての役割を果たしていること。別の言い方をすると、乳児は自分で状況を理解することも感情を調整することもできないので、親が全てを肩代わりしながら新生児を保護していること。そして何よりも、親は自らの身体的精神的欲求を全て脇において、乳児の要望に対応することに専心すること。つまり、親の自我は自分の主体性をほぼ明け渡した状態で乳児の世話に没頭するということです。

実際、ウィニコットは、この母親の心的状態を「ほぼ病的」であるとすら述べています。自我が自らの主体性をほぼ放棄して、新生児の自我の誕生のために献身するというのは、極めて特殊な状態だからです。非常に負荷の大きな精神状態であるからこそ、ウィニコットによれば、「この状態から通常の自己の状態に回復するためには、(母親である)女性は健康でなければならない」のです。

後にフェミニズムが盛んになってくると、原初的没頭を病的であるとか否定的に形容することを問題視する人も出てきたようです。中立的に表現すれば「非常に負荷のかかりやすい特殊な状況」であると言えると思います。

出産を控えたカップルが、この「原初的没頭」について知っておくことは有益ではないかと思います。というのは、乳児の世話については、授乳で寝不足になる、母乳分泌のために体力を使うなど、身体面での負荷に注目しがちですが、実は精神面の負荷も非常に大きいという事実を認識することで、親が自分たちの状況をよりよく理解できるからです。第一子誕生後に夫婦仲が悪化することは少なくないのですが、この原初的没頭という状態への理解があれば、ある程度は防げるかもしれません。また、縄跳びをしている時には心臓に負荷がかかるのが自然の摂理であるのと同様に、乳児の世話をしていると精神的に負荷がかかるものだという認識が広まれば、産後うつの予防への取組の重要性が再認識され、治療にも抵抗がなくなると思うからです。

産後、多くの親は「なんか自分はおかしいのでは」と感じながらも、それを的確に表現する言葉を持たず、同時に「誰もが大変な時期だから」と弱音を吐きにくい心理的背景も手伝って、その精神的困難の本質的な原因は不明なまま、運が良ければ乗り切れるし、悪ければ産後うつになる、という場当たり的な状況になっている印象があります。自分の状態を理解するためには、それを的確に表す言葉が必要です。原初的没頭について、両親教室などで取り上げると良いのではないかと思います。