フロイトによる論文「喪とメランコリー (Mourning and melancholia)」は、フロイトの論文の中でも特によく言及されるものの一つです。
喪もメランコリーも大切な対象を失った際の心理的反応ですが、喪は正常な反応であり、一方のメランコリーは、病理的です。大切な対象を失った際に、喪の作業をする人と、メランコリーを発症する人との違いを、フロイトは「喪とメランコリー」の中で精神分析の観点から考察しています。
本題に入る前に、喪とうつ病、そしてメランコリーの違いについて精神分析的な観点から説明します。
喪 (mourning)とは
喪は、大切な対象を喪失した際に起こる健常な心理過程であり、落ち込みや意欲の低下、時に不眠や倦怠感を伴います。この時、その人は何を失ったのか意識的に認識していて、そのために世界が空虚に感じられます。そして、その喪失対象に関する希望や夢、喜びなどを諦めなければいけない現実を、時間をかけて受け止めていきます。その過程で、落ち込んだり無気力になったりという状態になります。
喪は、一進一退を繰り返したり、時間を置いて無気力状態などがぶり返したりするものの、時間とともに回復していきます。ただし、失った対象に深く愛着を持っていた場合には、喪のプロセスに数年かかることもあります。
喪は喪失経験への健常な心理的反応なので、心理療法や投薬の必要はありません。理解ある人々に囲まれながら、心の整理をする時間が必要になります。ただし、悲しみや無気力が改善しない場合には、専門家に相談する必要がある場合もあります。
うつ病 (depression) とは
うつ病の症状は、やる気の喪失などは喪の症状と同じですが、何を失ったのかが本人の意識のレベルで認識されていない点が喪と異なります。うつ病の人は、なぜ自分がうつ状態になったのか理解できません。もしくは、考えられる原因はあるものの、うつ症状の程度がその結果としては不釣り合いなほどに深刻であると感じます。
うつ病の場合も、症状が軽くなったり重くなったりするのは喪のプロセスと同様ですが、時間とともに解決しない点が喪とは異なります。うつ病の人は、何を失ったのかがわからないため、喪のプロセスを進む人のように時間をかけて気持ちのバランスを整えるという心理的作業ができないのです。結果として、治療をしないでいると慢性化すると考えられます。
うつ病を引き起こす無意識の原因はさまざまで、一律に特定することはできません。比較的よくみられる例としては、自尊感情の傷つき、道徳的な自罰感情、関係性の欠如などが挙げられます。
うつ病からの回復には、精神分析や心理療法によって無意識の原因を見つけ出し、洞察を深めたり日常生活に統合したりする過程が必要になります。また、症状が重篤な場合には、一時的に症状を和らげるために投薬が必要になる時もあります。投薬によって一時的な症状の緩和が可能になりますが、長期的な解決にはならないことに留意が必要です。
メランコリー (melancholia) とは
メランコリーは、重度のうつです。その症状は他のうつ病と同様ですが、メランコリーに特徴的なのが暴力的と言えるほど激しい自己非難です。正当な理由もなく、熾烈かつ継続的に自らを批判したり貶めたりすることで自尊心を大きく損なってしまいます。結果として、うつ症状に拍車がかかります。
では、メランコリーの原因は何なのでしょうか。冒頭で挙げた論文で、フロイトは以下の考察を展開しています。
メランコリーの原因:喪とメランコリー
フロイトは、人の心的エネルギーをリビドーと呼びました。そして、対象にリビドーを投資することで、その対象との心的関係を構築すると考えます。この場合の対象は、人でもモノでも、また抽象的な概念やアイデアにもなりえます。
喪の場合、例えば事故などで大切な対象を失った場合、残された人は対象の喪失を意識的に認識し、嘆き悲しみます。その対象の喪失のために世の中が空虚に感じられ、すぐに立ち直ることは期待できません。というのは、リビドーは一度ある対象に投資されると、方向を変えて他の対象へ移動することに抵抗する性質があるからです。また、その喪失対象が大切な人であればあるほど、より多くのリビドーがその対象に投資されていたと考えられるからです。そして、リビドーが移動に抵抗をしている間は、喪失した対象は心の中で生き続けます。しかし、対象を失ったという現実を認識しているので、やがて少しずつリビドーは喪失した対象から退却し、やがて新しい対象へと向きを変えて置き換えが起こります。これが喪のプロセスであり、そのプロセスに時間が必要な理由です。
対して、メランコリーの場合、大切な人を失った際に、残された人は誰を失ったかは認識できるものの、何を失ったかは認識していないとされます。ここが対象の喪失を意識的に認識できる喪との大きな違いの一つです。
そして、メランコリーの場合も、喪失対象からリビドーを移動させようとするのは同じなのですが、リビドーは方向転換と置き替えに対してそれほど抵抗しないと考えられています。喪に比べるとリビドーの移動への抵抗は小さいのですが、喪との決定的な違いは、リビドーの移動先がその人の自我である点です。リビドーは新しい対象へ置き換えられるのではなく、自我へと引き返してしまうのです。同時に、自我と世界の境界線が非常に曖昧になり、自我のことを喪失対象であると無意識に錯覚します(同一視、identification)。いわば喪失対象の影に自我が覆われたような形になり、無意識のレベルでは自我が喪失されます。その結果、喪が「対象の喪失」であるのに対して、メランコリーでは「自我の喪失」になり、それに対応して、喪では世界が空虚に感じられるのですが、メランコリーでは内的世界が空虚に感じられるのです。この自我の喪失は無意識であるので、メランコリーの人は何を失ったのか意識的には認識できません。
さらに、この自我と同一視した喪失対象を、良心(超自我)が非常な激しさを持って非難するとされます。つまり、自己の一部が他の自己の一部を責め続け、自己の内部で葛藤が起こります。激しい自己非難がメランコリーの特徴であると述べましたが、この原因はメランコリーの起こる条件の一つである喪失対象に対する感情の両面性にあります。つまり、喪失対象に対して、愛情と憎しみの両方を抱えているため、喪失対象を非難叱責したいという無意識の欲求も同時にあるのです。その結果、元来の「自我 v.s. 対象」という対立構造が、自我と喪失対象の同一視によって、「自我の良心 v.s. 同一視により変容した自我」という対立構造に変わり、前者が後者を非難するわけです。メランコリーの人は、他人に向かって声だかに自己批判をしたがる点も特筆に値しますが(通常であれば、自分に対する非難には恥を伴うため、大っぴらに他人には話したがらない)、実は、それは自責の形をとった他責(愛憎を向けていた喪失対象への非難)なのです。つまり、「喪失対象が自分をいかに不当に扱ったかを他人に知ってほしい」という無意識の欲求が作用しているのです。そして、その心理的状態を保つ限り、喪失対象との心理的なつながりは失われずにすみ、同時に、無意識に喪失対象を貶すことで自我は優越感に浸るようにみえます。しかし、無意識の他責が意識上では激しい自責に形を変えているので、メランコリーの人は時に自殺念慮が強まるとされます。
ほぼ全ての喪は、対象の死によって引き起こされ、メランコリーは数限りないほど様々な離別に際しての葛藤により引き起こされるとされます。
上記のように、フロイトはメランコリーを自我と対象喪失の同一視であると考え、喪と比較して論じました。
資料)Freud, S. (1917). “Mourning and Melancholia” (vol.XIV, pp. 239-258). In The Standard Edition of the Complete Works of Sigmund Freud. London: The Hogarth Press and The Institute of Psycho-Analysis.
参考)Baekeland, C. E. “What’s the difference between mourning, depression, melancholia and mania?“