防衛機制⑤ 取り入れと同一視

取り入れ (introjection)は、他者の考え方など断片的に取り込むだけでなく、他者と自己が重なり自分がその他者のように無意識に感じる防衛です。一方で、同一視 (identification) は、他者の考え方、態度などを自分の内に取り入れる心理的な働きを指します。例えば、親との関係での取り入れは、親の考え方、価値観まで同じように感じることに対して、親と同一視する場合には、親のある行為、服装などを同じにするといった差異があります。取り入れの延長上に同一視があり、取り入れの方が無意識の程度がより強いとされます。これらは精神分析理論において重要な概念ですが同時に複雑な概念であり、論者によっても解釈が異なります。この投稿では細部に入り込むことは避けながらその概要について紹介したいと思います。

子どもは親や社会の価値観や態度を取り入れながら成長し、社会に適応できるようになります。大人が毎日何気なくしていること、例えば、挨拶や食事の仕方から、ケンカはよくないこと、人の話を聞くことなどといった価値観まで取り入れます。挨拶の仕方や怒った時の態度など、子どもが小さい頃は「子は親の鏡」という諺は的を得ていると思います。実際、自分の子どもの言動が自分を振り返るきっかけになった経験を持つ親は少なくないでしょう。

この現象はどのように説明されるのでしょうか。精神分析理論では、生まれてからしばらくの間は、乳幼児にとって「自分=世界」であり自分が世界の中心のように感じているとされます。なぜなら、乳幼児の世界には自分と外界を隔てる境界線はないか、あっても非常に曖昧なものからです。そのような状態にある乳幼児は、他者が持っているもの(性質や態度など)を自分が持っているように感じ、無意識に取り入れを行います。これは成長に必要な健全な心理機能です。

なぜ子どもが取り入れを行うかという理由には見解がいくつかありますが、権威のある人(親、社会)と同じ要素を自分の内に持つことで、その人との関係を近く感じることができ、結果として不安がなくなるという見方があります。同時に、自分も権威ある人と同じ要素を持つことで、自分が権威者のように強くなったように感じて不安がなくなるためとも言われます。

ちなみに、子どもが親や社会の価値観を内部に取り入れる結果、良心ができてくるとフロイトは考えました。他方で、取り入れた価値観とは相入れない自分の欲求は無意識に抑圧されるとされます。

不健康な取り入れの例として、攻撃者への同一視 (identification with the aggressor)があります。これは同一視と呼ばれますが、取り入れとしての性格が強いと考えられる、病理的な取り入れの例です。この防衛は、虐待される人(特に子ども)と虐待者との境界線が曖昧になり、虐待される人が、虐待者の強さや残虐性などを自分のものと錯覚する現象です。「私は絶望的な犠牲者ではなくて、力強い攻撃者だ」と感じることで恐怖や痛みを克服しようとするのです。端的な例は、虐待を受けた子どもが暴力的になる場合です。また、ナチスの強制キャンプのユダヤ人収容者が、ナチス警備兵の行進の仕方や態度を真似したり、廃棄されたナチスの制服を貴重な所持物として扱ったりした例が報告されています。

家族に争いが絶えないなどの劣悪な環境に育った子どもは、境界線を曖昧にすることによって環境の悪さを自分の悪さと感じます。そして「環境が劣悪なのは自分が悪いせいで、自分が良い子になれば環境はよくなる」と信じます。なぜなら、環境が劣悪(悪)だと認めるよりも、自分の中に悪がある(だから環境は良くなる可能性がある)と考えた方が不安が減少するからです。幼少期に常にこのような取り入れによって不安に対処し、報われない関係しか結べない他者と心理的につながり続けた場合(つまり、その他者の悪を自分の中に取り入れて自分を責め続ける)、性格的にうつ傾向があると考えられます。

また、強く惹かれる他者との境界線が曖昧になり他者を取り入れた結果、それが自分のアイデンティティの一部になっている場合には(例えば、「私は〇〇の母」、「〇〇の夫」など)、その重要な他者を失った際には自分の一部を失ったように感じるとされます。その空虚感や喪失感を回避するために、自分を責めたり相手を責めたりし続けることでうつ状態になるという解釈です。子どもが巣立った後の親や人生を捧げてきた仕事から引退した人にも当てはまる場合がありそうです。このように、不健康な取り入れは抑うつに関係すると考えられます。

同一視は中立的なプロセスであり、同一化の対象によって健康的にも病的にもなりえます。例えば、手本となる他者を見て真似ることを「モデリング」と呼ぶことがあるように、日常生活でも観察されます。

思春期においては、仲間同士で同一視をすることがよく観察されます。同じ髪型にしたり、同じゲームで遊んでみたりして、それまでの親(社会)の取り入れから方向を変え、新しい自分の在り方を模索する過程での同一視です。同じ理由から、憧れの有名人の同一視も盛んに行われます。

欧米で臨床心理学を専攻すると、学生がサイコセラピー(心理カウンセリング)を受けることが必須単位ですが、後に学生がサイコサラピストになって働き始めると、自分のサイコセラピストと同一視をしていることが多いと言われます。実際、私自身も米国で心理学を専攻した院生時代にサイコセラピーを2年間受けましたが、服装であったり(極めてカジュアル)、呼び方であったり(「先生」はつけずに基本的に名前で)、米国でのセッションのあり方と同一視している点が多いと感じます。同様に、社長の口調や態度、価値観に部長や課長のそれが似てくる場合、サークルやコミュニティが醸し出す雰囲気に感じる同一視など、私たちの考えや態度は、自覚している以上に周囲と同一視したものの割合が多そうです。

逆に、同一視の対象がないために不安を感じる場面も考えられます。例えば、「女性のリーダーを見たことがないので、リーダーになってもどう振る舞ってよいかわからない」というのは、同一視を行う権威ある対象が見つからないままなので、再現のしようがないということです。子育てをしている父親を見たことのない男性が、子育てをしようという意思はあっても具体的にどう振る舞えばよいかわからず不安を感じる場合も同様に説明することが可能です。どちらの場合も不安な状態を回避することが困難になります。

また、健康度の低い同一視の例としては、カルト集団の教祖との同一視が挙げられます。

以上に、取り入れと同一視を見てきましたが、他者が暴力的な場合も魅力的な場合にも、自分と他者(世界)との境界線を曖昧にし過ぎると、防衛は不健康になる傾向があることがわかります。逆に言うと、それだけ自我の安定というのは危ういもので、私たちは無意識のうちに様々な防衛によって安定を維持しているということです。

参考)
Kahn, M. (2002). Basic Freud. Basic Books.
McWilliams, N. (2011). Psychoanalytic diagnosis: Understanding Personality Structure in the Clinical Process. (2nd. ed). New York: Guilford press.


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