防衛機制 ④ 理想化と脱価値化

乳幼児期の自己の万能感の空想は、成長につれて養育者が万能だという空想に変わります。大人になるにつれ私たちは、子どもが初めて死や病気、敵対心や自分の弱さに直面した時の恐怖を忘れてしまいますが、その恐怖は深く、安心感を得るためには、養育者がどんな危険からも自分を守ってくれると信じることが必要なのです。実際、子どもが親を一途に信頼する姿は感動的ですらあります。

自我の防衛の目的は不安の回避ですから、自分か身近な人を万能だと理想化するのは理解しやすいと思います。そして、養育者を万能だと信じることで安心するという心理は大人になっても作用しています。例えば、国を運営している人々は自分よりも賢く頼りがいがあるという望みに表れます。民主主義国家であれば自分の今の生活は守られるという安心感もそうでしょう。そして、その期待が裏切られることにどれだけ動揺したり怒りを感じたりするかは、その望みがいかに自分の中で強力であったかを示唆します。

私たちは誰もが理想化をします。それ自体は問題ではなく、問題になるのは未熟な理想化を繰り返す時です。健康な大人でも感情面で頼りにする人に特別の価値を感じますし、通常の理想化は成熟した愛情に欠かすことのできない要素だとされます。子どもが成長して親が万能でないことを受け入れていくように、始めは理想化していたパートナーのことを、時間の経過と共に脱価値化して等身大のその人を受け入れることは健全なことだと考えられます。

しかし、中には「理想化」の欲求が幼児期のころからそれほど変化せず、未熟な形のままの人もいます。まるで、自分の内部に感じられる不安や恐怖に打ち勝つために、他者を万能だと理想化し、その人と心理的に融合することではじめて安心を感じることができるかのように、必死になって理想化を繰り返します。その理想化は、同時に不完全な自分を受け入れられないことも意味しています。自分の不完全さを補うために、理想化した他者と融合を試みるわけです。

万能な養育者を熱望する心理は、宗教に表れることは自然なことでしょう。時に問題になるのは、自分の恋人は完璧だと主張したり、自分の学校が一番だと言い張ったり、自分の指導者は決して間違いは犯さないと信じ込んだりする場合などの幻想です。カルトの信者は、リーダーを脱価値化するよりも死を選ぶことが知られています。一般的に、人が不安を感じ依存的であればあるほど、それだけ理想化することに魅力を感じます。例えば、患者が自分の担当医を「その分野の名医」と理想化する場合などです。

人をある価値基準でランクづけして、理想化した対象と融合することで自分が完璧だと思いたいという強い動機をもち、同時に脱価値化した対象と比較して優越感を見出す人は、自己愛的なパーソナリティと言えます。他人から、魅力や権力、知名度などを絶え間なく称賛されることを必要とする彼らですが、それは理想化と脱価値化という防衛の結果です。自己愛的な性格の人の特徴は他にもありますが、未熟な理想化と脱価値化への習慣的な依存はその特徴的なものです。 ありのままの自分を受け入れるのではなく、自分は完璧ではければいけないと考え、理想化と脱価値化によって自尊心を保とうと努力をします。

未熟な理想化の必然的結果は脱価値化です。なぜなら、完璧な対象などこの世に存在せず、理想化はそもそも幻想なのですから、時間の経過とともに理想化の対象にも不完全な点があることが明らかになり、失望と脱価値化は避けられなくなります。理想化の程度が大きければ大きいほど、続く脱価値化も激しくなります。境界性パーソナリティ構造にもこの理想化と脱価値化は特徴的です。

このようなクライエントに対しては、セラピストは未熟な理想化と脱価値化の対象になることを覚悟する必要があります。ある時は「世界一のセラピスト」であると称賛されるのですが、何かをきっかけに、「全く無能なセラピスト」と脱価値化されることが往々にしてあるからです。

日常生活でも、ある対象への期待が大きければ大きいほど、失望と脱価値化も激しい例はよくあります。例えば、自分の妻の癌を治療できるのはこの医者しかいないと主治医を理想化している夫は、妻が治療の甲斐なく死亡した場合には、その医者を裁判所に訴える可能性すらあります。あの学校に進学さえできれば、あの会社に就職さえできれば、減量して痩せさえすれば等々、対象を理想化して「それさえ実現すれば私は完璧になれる」という心理はそれほど珍しくありませんが、その裏側には不完全な自分への不安があります。そして、それが実現したときに理想化の幻想が破れて、大きく落ち込むことも珍しくありません。

参考)
McWilliams, N. (2011). Psychoanalytic diagnosis: Understanding Personality Structure in the Clinical Process. (2nd. ed). New York: Guilford press.