「打ち消し」は、「空想上のまたは実際の行為よる罪悪感や恥の感情を打ち消すために何かをする」という防衛です。例えば、夫婦喧嘩の翌日にいつもより豪華な朝食を用意する、期日までにレポートを添削して学生に返却できなかった教授がそのレポートの評価をAにする、などです。これが意識的な行動であれば定義上防衛に当たりませんが、本人が無意識のうちに行っている時、「打ち消し」という防衛だと考えます。
打ち消しは、魔法のような「万能的支配力」が発展した防衛だと捉えることができます。つまり、自分には、既にやってしまったことを「ないことにする、打ち消す」万能の力があるのだと考える無意識の存在が感じられます。迷信的な行為に通じるところもあります。
実際、宗教的な儀式には、この防衛の打ち消しという一面があります。祈ることで、自分の悪い一面を「なかったことに」できる、従って罪悪感や恥から自由になれると考えるのは人間に共通する傾向のようです。神社仏閣を訪れた後の清々しい気持ちには、実は打ち消しが効果的に作用しているのかもしれません。また、子どもが歩道のタイルの境目を踏まずに家まで帰れたら母親に悪いことが起こらない、というようなゲームをすることがありますが、ここにも打ち消しの一面を見ることができます。つまり、子どもは無意識に母親の死を望んでおり、その罪悪を打ち消すためにゲームに一生懸命になっていると捉えるわけです。このように、自分の敵対的感情に危険を感じるのは、自分の感情や考えと実際の行為とを等価に捉える万能的な空想が根本にあると考えれらます。
自分の過去の過ちや失敗について、それが現実のものか空想上のものかにかかわらず、強く自責する傾向のある人は、生涯をかけて防衛の打ち消しの性質を持つ活動に取り組む場合があります。ある研究によると、死刑制度廃止のために長年熱心に活動をする人びとには、打ち消しの特徴が見られることが示唆されたそうです。また、幼少期に好意を持っていた人が人種差別に苦しんでいるのを救えなかった経験が元になり、人種差別根絶のための活動に生涯を通じて関わった例もあります。「自分の犯した罪に対する恥や罪悪感に対抗し打ち消せるような活動をする」のが防衛の打ち消しですが、こう考えると崇高な目的への無意識の動機付けになる場合があることがわかります。ちなみに、以前に投影について書いた際に、「この世界には悪が多すぎる。世の中をよくしたい」と活動に打ち込む人の中には、自分の中の「悪」を世界に投影している可能性があると書きました。これらはあくまでも無意識の防衛という観点からの可能性、仮説なのですが、こうした視点から世の中を見てみるとまた新しい気づきがあるかもしれません。
ある人の防衛スタイルの中心が打ち消しで、過去の罪を償うことが自己肯定感に大きく貢献している場合、その人は強迫的な性格だと考えられます。ちなみに、「強迫的」というと望ましくない行為だと捉えられることが多いですが、実際には道徳的に価値中立的です。つまり、強迫的アルコール依存の人もいる一方で、強迫的な人道主義派アクティビストもいます。「強迫行為」と同様に「強迫観念」も価値中立的です。自分でも違和感を持ち生活に支障が出るような強迫行為や強迫観念に苦しむ人もいる一方で、対照的に、満ち足りた気分で強迫観念的に筋書きについて考える小説家や、強迫行為的に嬉々として庭の手入れに勤しむ人を「不健康」だと考える人はいないでしょう。同様に、昼夜を問わず会社のために仕事をする「熱血会社員」は強迫行為的だと言えますが、本人の動機に無関係に前向きな価値判断をさせることもあれば(「頑張っている」「根性がある」等)、本人がいかに遣り甲斐を感じていたとしても「ワーカホリック」と否定的に価値判断されることもあります。つまり、人の性格について論じる際には、「強迫観念」は思考のスタイルを、そして「強迫行為」は行動のスタイルを価値中立的に表すに過ぎず、それを個人的、文化的、社会的な価値観や規範に従って「健康的」なものから「病理的」なものまで価値判断をするといえます。そういった強迫行為や脅迫観念が、実際または観念上の行為による罪悪感の打ち消しを(無意識に)意図している時、それは「打ち消し」という防衛機制であると捉えます。
参考)
McWilliams, N. (2011). Psychoanalytic diagnosis: Understanding Personality Structure in the Clinical Process. (2nd. ed). New York: Guilford press.